訳の分からないことを書けば(もとい、描けば、そして言えば)それらしいものになる。問い詰められてもこの良さが分からないならお前はそれまでの人間だ、と突き放すことができる。そのためか近頃エセ芸術家が量産されつつある。(ここでいう芸術とは単に絵や音楽などの一般的な芸術に限定しない広義的なものとする)
小難しい単語を羅列して書かれた訳の分からぬ文章が良い文章と言えるのか。
適当にあれやこれや織り交ぜただけの統一感のない絵画が美であるのか。
未だに世間では計算の複雑な問題が数学における難しい問題だと認識されている。
己のプライドのため保身のため非才を隠そうとするあまり却って凡夫さが露呈する。
この皮肉さが寧ろ面白いまである。
聞かれてもいないことを意気揚々と語り出す人間、本心を見抜いていないくせに解った気になって人の心を語り出す人間も同様に愚かである。
私はここまで理解しているぞ、私はあなたのことを察することができますよ、と、、
「展覧会ですね。まるで。」
最高にアイロニーを孕んだこの言葉が全てを物語っていた。
なるほど展覧会とはよく言ったもので非才を隠すことが目的ではなく見聞する者にそれを隠すための行動の恥ずかしさを感じさせるのが真の目的なのではないかと考えないではいられない。
非才と天才は紙一重だが自身でアクリル板をつけないようには気をつけたいものである。
〈補足〉
自家撞着(意味)
同じ人の言動や文章などが前後で矛盾していること。自分で自分の言行に反することをすること。